2009-06-19

中国語の部屋・・・(またしても内と外(4))

サールの中国語の部屋に関する議論でTHE REDISCOVERY OF THE MINDに於いて追記されたこと。
(318ページから)シンタックスは物理的構造に本来固有のものではない、という議論をしているのだ。「中国語の部屋」のもともとの議論の目的のために、私は<コンピュータをシンタックス的に特徴づけることには、何ら問題もなかった>と想定していた。しかし、これはまちがいである。なにか、<本来的にデジタルコンピュータであるようなものがあること>を発見するなどということは、決してない。なぜなら、それをデジタルコンピュータとして特徴づけることは、そのシステムの純粋に物理的特性へのシンタックス的解釈を割り当てる観察者がいて、常にそのような観察者との関係において行われるからである。<思考言語>仮説に適用すれば、いま述べたことは、この仮説が整合性に欠けるという帰結をもたらす。<あなたの頭の中には本来固有の仕方で文であり、しかも知られない文が存在する>ということが発見されるなどということはありえないのだ。そもそも何かが文となるのは、それを文として使用する主体か使用者がいて、彼らとの関係でのみ文となるからである。計算操作的モデル一般に適用すれば、こうなる。コンピュータ的計算操作としてプロセスを特徴づけることは[そのプロセスを実行しているとみなされる]物理的システムを外から特徴づけることである。そのプロセスを計算操作的と見なすことは、物理的構造の本来固有の特性を特定することではない。それは、本質的に観察者に関係した特徴づけなのである。
(中略)<何かが計算操作プログラムとして「機能している」>と言うことは、<物理的出来事のあるパターンが起こっている>という以上のことを言っているのだ。それは、ある主体により、そのシステムが計算操作をしているという解釈が割り当てられることを必要としている。アナロジー的に言えば、自然の中には、椅子と同じ種類の形をした物体が発見されるかもしれないし、それは椅子として使用されるかもしれない。しかし、それらを椅子とみなし、椅子として使用する主体との関係を除外しては、自然の中に、椅子として機能している物体を発見することはできない。
この議論を読んで、カール・マルクスの資本論を思い出した。彼も結局この内と外のことを議論しているんだ。